【震災伝承】阪神・淡路大震災を次世代に語り継ぐ。震災を経験したディレクターが今、伝えたい想い
J:COMは安心・安全で輝き続ける街づくりのために、地域に根差したメディアとして「情報発信による防災・減災」に力を入れています。防災意識が高まる中、災害発生時の行動・救出対応、事前の備えや過去の災害時の教訓などをコミュニティチャンネルやアプリを通じて発信し続けています。
2024年1月17日、大阪・兵庫・京都・和歌山のJ:COMサービスエリアで放送した特別番組『1.17 阪神・淡路大震災 あの日を忘れない ~記憶・教訓・共生~』もその一つです。震災直後の街の様子を記録した当時のテープを掘り起こし、未公開となっていたアーカイブ映像を初放送しました。
テープが発掘された経緯、番組を通して伝えたい想いとは――。制作に関わった芦屋事務所ディレクターの松本侑記さんに話を聞きました。
阪神・淡路大震災直後の芦屋市内を記録したテープを29年ぶりに発掘
——まずは松本さんのお仕事について教えてください
2016年10月から番組制作を行う部署に所属しています。配属当初からしばらくは、大阪市内の情報を中心に、地域ニュースや街ブラ番組の制作に携わり、一昨年からは、プロダクション本部 芦屋事務所で地域ニュースのほか、防災・防犯に関する番組の制作を担当しています。
——阪神・淡路大震災の発生から29年を迎え、今年1月17日には特別番組が放送されました。松本さんは記録映像のVTRを担当されたのですね?
今回の特別番組『1.17 阪神・淡路大震災 あの日を忘れない』では、「記憶」「教訓」「共生」という3つのテーマを掲げました。
「記憶」は神戸市内の追悼式典会場からの生中継、「共生」は関西各地の防災に関するさまざまな取り組み事例を紹介しました。
私が担当した「教訓」のパートでは、震災直後の芦屋市内を記録した未公開のアーカイブ映像をまとめたVTRを放送しました。
「震災の教訓を後世にどう伝えていくべきか?」をテーマに、当時の撮影スタッフへも取材し、担当ディレクターとして制作編集にあたりました。
——特別番組で未公開映像が放送されることになったきっかけは?
NHKとは「防災・減災における連携協定」を締結し、日頃から災害時の連携に向けた定期連絡会や勉強会を実施しています。
昨年の秋ごろ、NHKとの番組制作協力に向けた打ち合わせの中で、その場に居合わせた当時を知る社員から「CCA(J:COM神戸・芦屋の前身となるケーブルテレビ局)が震災直後に撮影したテープがあるはず」という声があり、アーカイブ室を調べてみることにしました。
そこには、「兵庫県南部地震」を記録したテープが30数本、保管されていました。そのテープの撮影がスタートしたのは震災からわずか2日後の1月19日でした。
当時のカメラマンであった上田さんは発災後、17日中に芦屋市の事務所に到着し、まず救助活動を開始。負傷者を社用車で病院に搬送した後、事務所からなんとかカメラを見つけて、同僚と手分けして撮影を始めたと聞いています。
震災の記録を次世代に伝え、災害を“自分ごと”として考えるきっかけに
——テープにはどのような映像が記録されていたのでしょうか?
家が完全に倒壊してしまった芦屋市内の住宅街や、大きく歪んだ鉄道のレール、その線路の上を歩いて避難する住民の方々、大勢の避難者がすし詰め状態となった小学校や市役所の様子などが記録されていました。
「こんな貴重な映像がなぜ未公開なのか…」と疑問に思い、当時を知る社員(スタッフ)にさらに聞いてみると、
当時、「この映像を、芦屋で生活する人たちに観てもらうにはまだ早い」という判断で、長らく眠ったままになっていたようなのです。
被災した方々の気持ちに寄り添った判断で、自分たちも当事者であるからこそこうした決断になったのでしょう。当時の想いも受け止めながら、残されたテープを使って番組を作ることが私のような後世のスタッフの役割だと感じました。
——映像をご覧になって、松本さんの率直な感想は?
「芦屋もこんなにひどい状況だったのか」と改めて現実を突きつけられました。
当時、私は6歳で、神戸市西区に住んでいました。幸い、自宅マンションの被害は食器棚の皿が割れた程度でしたが、長田区の親戚宅は長屋の1階が潰れてしまい、子供の目の高さに2階部分がある。そんな深刻な被災状況を目の当たりにしました。
自宅から芦屋市へは電車で1時間ほどの距離があり、当時のニュース映像でも芦屋の被害状況を観る機会はほとんどありませんでした。しかし実際は芦屋市内で452人もの方が亡くなっています。震災直後の芦屋の姿、人々の暮らしぶりを記録した貴重な資料だと思います。
——今回の特番を通して伝えたいことは?
震災から29年が経った今、芦屋の街を歩いていても震災の爪痕はほとんど見あたりません。人口統計によると芦屋在住者の約4割が29歳以下。つまり、震災後に生まれ、「震災経験がない」世代なんです。
震災を知らない世代に「自分が住んでいる街で、かつてこんな大変な災害が起きたんだよ」と知ってもらいたい。ありのままを伝えたいと制作しました。
さらに今年の元日には能登半島地震が起きました。自然災害はいつどこで起こるかわかりません。次、もし大きな地震が起こったら自分に何ができるか、何をすべきか。この番組が少しでも、災害を自分ごととして考えてもらうきっかけになればと考えています。
「人間は弱いけど、強い」カメラマンが必死に記録した、震災後の日常
——取材や編集する過程で印象に残っていることは?
カメラを回した上田さんがインタビュー内で繰り返していた「人間は弱いけど、強い」という言葉が印象に残っています。
住民の多くが家を失い、身内を亡くされた方も大勢いました。いろいろな思いを抱えた人たちをカメラに収めていく中で、上田さんは「自然災害に対して、人間はなんて弱い存在だ」と痛感したそうです。
実は私も、発災から1ヶ月後に叔母を震災関連死で亡くしています。いつもニコニコとして明るかった叔母が、近所の小学校の体育館に避難後、徐々に元気をなくして弱っていったんです。「環境が変わるだけで、人って死ぬんやな。人って脆いんや」と感じたのを覚えています。
しかし、その極限状態でも住民同士が助け合い、支え合いながら苦難を乗り越え、日常生活を取り戻していこうとしている。震災から数日後にはそのような姿がカメラ越しに映り、「でもやっぱり、人は強い」と感じたそうなんです。
確かに映像を見ると、住民の皆さんがたわいのない会話を交わす光景や笑顔も残されています。人間は弱い、だけど強い。私自身もこのテープを通して学びました。
——そもそも、このような映像を撮影できた理由は?
会社が「記録を残そう」と決めたわけではありません。上田さんをはじめ、CCAスタッフの「この出来事を後世に伝えるため、記録に残さなければいけない」という使命感があったから、そして地域の方々との信頼関係ができていたからです。
上田さんに聞くと「普段から街で撮影していたから、温かく迎えてくれた」と振り返っていました。
被災して、見知らぬ人にカメラを向けられることを不快に思った人も多かったと思います。そんな中でも上田さんに「ご苦労さん」と言葉をかけてくれた方がいたようです。まさに地域に根差したメディア人であり、私たち後輩が目指す姿だと心から尊敬しています。
誰かが笑顔になれるような番組を作りたい
——松本さんご自身、今回の取り組みを振り返って大変だったことは?
正直、編集中に震災の映像を見続けていると、気が滅入ることもありました。昨年末から年明けにかけて、休暇のため編集作業を一時中断し、記録映像と少し距離をとっている最中、元日に北陸で地震が起きました。テレビに映る被災地の様子が、当時の神戸に似ていたこともあり、忘れかけていた被災当時のつらさがフラッシュバックしたこともありました。
ただ、芦屋の記録映像には全て目を通しました。後日「こんな映像あったんや」と後悔はしたくないからです。大変でしたが、その分当時の芦屋の雰囲気が伝わるVTRにまとめることができたと思っています。
——ディレクターとして番組作りで大切にしていることは?
防災に関しては、防災・減災・防犯の理解促進を目的とする番組『こちらJ:COM安心安全課(関西)』を月1本、制作しています。これはJ:COM各局にある「安心安全」の専任チームが担当しており、私も去年からチームの一員として制作に携わっています。
ただ、防災・防犯の情報って、自分のくらしや命を守る上でもちろん大切な情報なのですが、「ちょっと堅苦しい」「とっつきにくいな」と感じてしまうこともあると思うんです。それを演出面で工夫して「見たい」と思える映像に仕上げるよう心がけています。
——最後に、松本さんが今後取り組みたいことや作りたい番組は?
ディレクターとしては、楽しい番組が作りたいんです。なぜかというと、6歳で被災して、身近な人の死も経験して「いつ何が起きるかわからない」って意識が今も根底にあるからです。ならば「今を後悔なく全力で楽しんで、いつも笑っていたい」というのが、自分が阪神・淡路大震災の体験から得た教訓です。
テレビを観て、誰かが笑顔になったり、元気になったりするような番組ができたらいいなと思います。
J:COMでは東日本大震災が発生した3月11日に向けて、地域の皆さまに改めて防災・減災の意識を高めていただくため、7地域で7つの震災・防災関連の特番を放送します。また、番組のYouTubeや地域情報アプリ「ど・ろーかる」でも番組をご視聴いただけます